Moldau

『我が祖国』 (わがそこく、チェコ語: Má Vlast) は、 ベドルジフ・スメタナ (Bedřich Smetana,1824-1884) の代表的な作品で、 1874 年から 1879年 にかけて作曲された 6 つの交響詩からなる連作交響詩 (symphonic poem)。 第2曲『ヴルタヴァ (Vltava=Moldau)』が特に有名です。

スメタナは彼の革命に近い思想にもかかわらず、 1850 年プラハ城におけるフェルディナント 1 世の常任宮廷ピアニストの職を手に入れました。 ただ、その後スメタナに立て続けに不幸が襲い、妻であるカテジナも結核と診断されました。 この時期の、スメタナの成功した演奏としては、 1856 年 1 月のモーツァルト生誕 100 周年記念コンサートにおける 『ピアノ協奏曲第 20 番』の演奏がありました。 ただ、スメタナのプラハへの幻滅は大きくなり、 両親へ「プラハは私を認めようとはしない。だから私はそこを離れる」と手紙を書き、 1856 年 10 月 11 日、スウェーデン・ヨーテボリへ旅立ちました。

妻の死や、スウェーデンでの別の女性との結婚など、いろいろありましたが、 とりあえず省略。

50 の坂を越え、才能はやっと花を開きます。 1876 年 6 月、彼と再婚相手、2 人の娘はプラハを離れ、ヤブケニセに引っ越しました。 この地には、前妻のカテジナとの娘、ゾフィーの家がありました。 静かな環境に囲まれ、スメタナはやっと平穏の中で仕事をすることができました。 プラハを離れる前、スメタナは交響詩『わが祖国 (Má Vlast)』の作曲を開始したのです。

このうち、最初の 2 曲、「ヴィシェフラド」 (Vyšehrad) と「ヴルタヴァ」 (Vltava)は、 プラハ滞在中に完成しており、1875 年中にプラハでいずれも演奏されています。 ヤブケニセで、スメタナは残りの 4 曲を作曲し、 1882 年 11 月 5 日にアドルフ・チェフの指揮のもと初演されました。 この時期の他の著名な楽曲としては、『弦楽四重奏曲第 1 番 ホ短調「わが生涯より」』、 ピアノ曲『チェコ舞曲集』、 いくつかの合唱曲、そして 3 つのオペラ『口づけ』、『秘密』、『悪魔の壁』があります。

スメタナの「わが祖国」への思いは、こういう人生模様を背景にしています。

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