あの色だけならば 暗すぎる
すすきの道をふさぐ われもこう
風のまま ゆれ 霧のたび ぬれ
さびついた とびらを つくる毬(まり)
にわかに 秋の日 かがやく 深いくれない
遠くで うろこ雲 たずねてる
エジプトそだちの 紅(べに)を見たか
ルルル・・・・
風のまま ゆれ 霧のたび ぬれ
さびついた とびらを つくる毬
にわかに 秋の日 かがやく 深いくれない
遠くで うろこ雲 たずねてる
エジプトそだちの 紅を見たか
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ワレモコウ(吾亦紅、吾木香)は、バラ科・ワレモコウ属の植物。日本列島、朝鮮半島、中国大陸、シベリアなどに分布しており、アラスカでは帰化植物として自生している。
源氏物語にも見える古い名称である。漢字表記においては吾木香、我毛紅、我毛香など様々に書かれてきたが、「〜もまた」を意味する「亦」を「も」と読み、「吾亦紅」と書くのが現代では一般的である。
名の由来には諸説あるが、前川文夫によれば木瓜文(もっこうもん)を割ったように見えることからの命名という。ほか、
「我もこうありたい」の意味であるなど、様々な俗説もある。
[ Wikipedia からの抜粋 ]
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この曲では、「我も亦(また)紅なり」、「紅としてありたい」と解釈したいですね。
高浜虚子の俳句にも: 「われもまた 紅なりと ひそやかに」 があります。
なお、紅花(ベニバナ)はエジプト原産といわれ、古くから世界各地で栽培されています。
日本にはシルクロードを経て4~5世紀ごろに渡来したといわれており(6世紀伝来説もあり)、
古くは和名が「くれのあい(呉藍)」。「くれない」という言葉自体が中国伝来の染料との意味。
...だそうです。
作曲家: 新実徳英(にいみとくひで)
1947年名古屋市生まれ。愛知県立旭丘高校卒。70年東京大学工学部機械工学科卒。
75年東京芸術大学音楽学部作曲科卒。78年同大学院研究科修了。
間宮芳生、三好晃、野田暉行に師事。桐朋学院大学音楽学部、同短期大学非常勤講師。
77年第8回ジュネーブ国際バレエ音楽作曲コンクールにて史上二人目のグランプリ、
ならびにジュネーブ市賞を受賞。83年同コンクール審査員。84年文化庁芸術祭優秀賞受賞。
2000年第18回中島健蔵音楽賞受賞。作曲ジャンルは歌劇、管弦楽、室内楽、声楽など幅広いが、
国内では<幼年連祷><やさしい魚><祈りの虹>等の合唱曲の作曲家として知られる。
作詞家: 谷川雁(たにがわがん) 本名:谷川巌(たにがわいわお)
1923年熊本県水俣市に6人兄弟の次男として生まれる。兄は民俗学者谷川健一。1945年東京大学文学部社会学科卒。
終戦前、8ヶ月の軍隊生活を送り その間3度営倉に入れられる。戦後西日本新聞社に勤務。
「九州詩人」「母音」に詩を発表。1947年日本共産党に入党、大西巨人、井上光晴らと活動し、新聞社を解雇される。
1954年から60年にかけて第一詩集「大地の商人」第二詩集「天山」「定本谷川雁詩集」を刊行し、定本詩集のあとがきで以後詩作しな いことを宣言。1958年福岡県中間市に移住。評論集「原点が存在する」「工作者宣言」などを発表。
60年安保闘争を機に共産党を離党し、吉本隆明らと「六月行動委員会」を組織して
全学連主流派の行動を支援する一方、地元の大正炭鉱を巡る労働争議では「大正行動隊」を組織して活動した。
「多数決を否定する」「連帯を求めて孤立を恐れず」といった組織原理、行動原理は
その後の全共闘運動にも大きな影響を与えた。
63年評論集「影の越境をめぐって」を刊行。 大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開。
65年、闘争の収束と共に執筆を含めた一切の活動を停止して上京、語学教育を展開する「ラボ教育センター」を設立。
78年長野県黒姫山へ移住。81年から「十代の会」や「ものがたり文化の会」を主宰し、
宮沢賢治を中心にした児童文化活動に取り組む。
この活動の一環として、物語テープに音楽を入れる仕事を新実徳英に依頼。
90年新実徳英と共作で合唱曲「白いうた青いうた」の制作を開始。
全100曲を目指したが雁の死により53曲で終わる。1995年2月2日、肺ガンにより死去。享年72歳。
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