梅雨の晴れ間
廻(まは)せ、廻(まは)せ、水ぐるま、
けふの午(ひる)から 忠信(ただのぶ)① が
隈(くま)どり② 紅 (あか) いしやつ面 (つら) に
足どりかろく、手もかろく
狐六法 (きつねろつぽふ)③ 踏みゆかむ
花道の下、水ぐるま…………
廻 (まは) せ、廻せ、水ぐるま、
雨に濡れたる古むしろ、圓天井のその屋根に、
靑い空透き、日の光、
七寶 (しつぽう) ④のごときらきらと、
化粧部屋 (けしやうべや) にも笑ふなり。
廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
梅雨(つゆ)の晴れ間(ま)の一日(いちにち)を、せめて樂しく浮かれよと
廻り舞臺も滑(すべ)るなり、
水を汲み出せ、そのしたの葱の畑(はたけ)のたまり水。
廻 (まは) せ、廻せ、水ぐるま、
だんだら幕の黒と赤、すこしかかげてなつかしく
旅の女形 (おやま) もさし覗く、
水を汲み出せ、平土間 (ひらどま) の、田舎芝居の韮畑 (にらばたけ)。
廻(まは)せ、廻せ、水ぐるま、
はやも午(ひる)から忠信(ただのぶ)①が
紅隈(べにくま)とつたしやつ面(つら)に
足どりかろく、手もかろく、
狐六法(きつねろつぽふ)③踏みゆかむ花道の下、水ぐるま…………
終曲 “梅雨の晴れ間” は五節より成るが、
各節の歌い出しは全て “廻る” ではなく “廻せ、廻せ、水ぐるま” で始まる。
水ぐるまはかつて柳川ではどこにでも見られたものである。
今は電動ポンプに代えられ姿を消したが、
柳川市立図書館に併設された「アメンボセンター」
で模型を見ることができる。
固定されたものではなく、人が持ち運びして、田畑に溜った水を掻き出したり、
日照りに掘割の水を田畑に入れたりするもので、
長い竹竿を両手に持って体を支え、水ぐるまの羽根板に足をのせ、
交互に歩くように体重をかけて廻すのである。
従って廻せの表現はこの足踏みを念頭に置くべきであろう。
第 1 節は役者の化粧と荒事の所作、第 2 節は芝居小屋の外、
第 3 節はお客も舞台も共に楽しんでいる様子、
第 4 節は芝居小屋の中、第 5 節は第 1 節と同じ役者の化粧と荒事の所作に戻る。
梅雨の晴れ間のひとときを
役者・芝居小屋・観客が共に楽しんでいる様子が絵巻物を見るが如く描かれている。
白秋の詩には童謡など絵が浮かんでくるものが多い。
「あわて床屋」「アメフリ」「待ちぼうけ」「かやの木山の」などである。
声は絵筆、メロディー・リズム・ハーモニーは多彩な絵の具。
歌い手はホールというカンバスに向かって
上質の絵の具で音を伴った絵を描いていくことになる。
--- 「柳河風俗詩」という音楽絵巻物を。
① 浅野忠信。義経の家臣。
もとは奥州出羽国の出身で、母親の病により故郷に帰っていた。
『義経千本桜』 (よしつねせんぼんざくら) とは、
人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。
五段続、延享 4 年 (1747 年) 11 月、大坂竹本座にて初演。
二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。
「大物船矢倉/吉野花矢倉」
(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら) の角書きが付く。
通称『千本桜』。
源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、
実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。
② 歌舞伎独特の化粧法のことである。
初代市川團十郎が、坂田金時の息子である英雄坂田金平役の初舞台で
紅と墨を用いて化粧したことが始まりと言われる。
③ 歌舞伎の演技・演出用語。
主として荒事で用いられる「歩く芸」とでも言うのでしょうか、
手と足を大きく振るのを基本にして、歩く姿・歩く仕草・歩く風俗を誇張して見せるもの。
なお「六方」とは「東西南北」に「天地」を加えたもの。
歩きかたは右手と右足、左手と左足という順に使う「ナンバ歩き」である。
明治時代に西洋式調練が実施されるまでは日本人の歩きかたはこのスタイルであった。
④ 仏教において、貴重とされる七種の宝のこと。
無量寿経においては、
「金、銀、瑠璃 (るり)、玻璃 (はり)、硨磲 (しゃこ)、珊瑚 (さんご)、瑪瑙 (めのう)」とされ、
法華経においては、「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰 (まいかい)」とされる。
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