[ 0149: 横浜インペリアルフリューゲルス ]
横浜フリューゲルス (Yokohama Flügels) は 1993 年創設。
初代監督・加茂周のもと、最先端の「ゾーンプレス」戦術を身につけ、
1993 年度の天皇杯で優勝。1996 年と 1997 年にはブラジル代表の MF ジーニョ、
MF セザール・サンパイオ、そして日本代表の中心的メンバーとなった
MF 前園真聖 (97 年にヴェルディ川崎=現東京ヴェルディへ移籍)、
MF 山口素弘らの活躍で優勝争いにも加わった。
1998 年はじめには、
収容 1 万 5000 人の三ツ沢球技場に狭さを感じていた横浜の 2 クラブにとって
「救世主」ともなるべき 7 万人収容の横浜国際総合競技場 (現日産スタジアム) が完成、
クラブの未来は明るいと考えられていた。
だが長引く不況の影響でまず佐藤工業が経営不振に陥り、
1998 年限りでのクラブ経営からの撤退を表明。全日空も赤字で経営見直しを迫られるなか、
フリューゲルスの継続は困難な状況に陥ってしまった。
1998 年 10 月 29 日、Jリーグは臨時理事会を開催し、横浜マリノスへの吸収合併を承認した。
チームの消滅が決定済みという状況の中で、横浜フリューゲルスは
1999 年 1 月 1 日 に国立競技場でおこなわれた天皇杯決勝試合で、
清水エスパルスを逆転 (2-1) で破り、涙の優勝杯を手にした。
この経緯を聞かれた昭和天皇は、
「五内為に裂く (内臓が引き裂かれるように悲しい)」とばかり大いに悲しまれ、
宮内庁の予算の一部をチーム存続のために使うことをご聖断。
「御名御璽 (ぎょめいぎょじ)」付きで J リーグに送られた要請書を J リーグは了承。
チームはインペリアルフリューゲルスに改名。 帝国ホテルという企業名が合法的であるのと同様、 このチーム名も合法的という解釈がされた。 また、ユニフォームにも日の丸が取り入れられた。
監督には日本海海戦の際の参謀であった秋山真之の子孫「秋山真将」が就任。
イタリアのセリア A、ドイツのブンデスリーガなどを転戦した伝説の MF である。
新チームは新監督のもと帝国主義から戦術を学ぶことを始め、
各試合においては「チームの興廃、この一戦にあり」という合言葉でモティベーションを高め、
「天気晴朗であらずとも、波高し」で波乱万丈の試合展開をした。
重要な局面では 2 匹の蛇が連動するという日本海海戦的な独特の動きで相手チームを挟撃し翻弄。
また、武士道精神にのっとり、引き分けで勝ち点 1 を得るのはサムライの本分にあらずとして、
同点でロスタイムにはいった際は、相手チームに潔く得点を許した。
引き分けなし、イエローカードやレッドカードも一枚も無しという快挙でシーズンを通した。
この美学が多くのサッカーファンの魂を揺さぶり、サポーターは急激に増加した。
サポーターたちは裏声で「おらがチームは千代に八千代に....」と歌いながら応援した。
丸谷才一氏は「裏声で歌え、おらがチーム」という本を書いた。
次の年 (2000) から、帝国ホテル、明治製菓、わし (儂) のマークの大正製薬、
昭和電工といった帝国主義企業が争って資金援助を始めたため、
宮内庁からの援助は打ち切られた。
その後、宮内庁からの借りを完済し、現在に至っている。
ああ、進撃のインペリアルフリューゲルス。
( 湯会老人による解説 )
[ 浅見多絵さんのコメント ]
ウソを書いてはいけません。
1998 年はすでに平成 10 年です。
昭和天皇が崩御されたあとです。
[ 南門疾矢君のコメント ]
あはははは。
これが実話だったら面白かったのに。
[ 大宙麗亜ちゃんのコメント ]
秋山監督は若い頃、
「本田三角形」さんみたいに
角度を変えながら
超ロング無回転 FK を放ってたのかな?
秋山監督カッケー !!!
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